陳重自伝より
                               
陳 重(赤松紀彦訳)

  陳重先生(1919〜2002)は、上海出身の笛子・洞簫・琵琶・古琴などの演奏家であり、長く天津音楽学院で教学にあたられました。各楽器の独奏曲はもちろん、江南絲竹や崑曲に造詣が深く、また古代の楽器であるの復元とその演奏でも有名です。
 京都江南絲竹会の創立以来、我々の成長を暖かく見守ってくださいました。この自伝は、1994年、陳重先生来日の際、その演奏会のプログラムに載せられたもので、1930年代の江南絲竹のありさまが記されている点では、たいへん貴重な資料です。

「絲竹之郷」に生まれて

 私は、1919年3月、現在は盛んに開発の進む上海の浦東地区にある楊家渡という小さな町に生まれた。このあたりは、上海市区とはただ黄浦江を隔てた指呼の間にあるとはいえ、当時は魚米の郷の雰囲気ただよう郊外であった。さて、旧中国の上海は「十里洋場」と称される租界地ではあったが、同時に文人たちが数多くあつまり、伝統的な文化芸術の花開く地でもあった。音楽の点でも、プロのみならず、才能に溢れた民間愛好者が数多くおり、絲竹の声があちらこちらに聞こえ独特の風格を備えた江南絲竹が形成されていた。まさに「絲竹之郷」でもあったのである。
 ものごころついた頃には、すでに私はこうした絲竹音楽に興味を覚え、ちょうど満十歳になった頃に、偶然の機会から笛を手にすることになった。あれこれと自分で吹いている中に、その吹き方を身につけ、その優美な音にすっかり魅せられたのである。ちょうど、母方に笛や二胡の上手なおじがおり、当時、浦東の絲竹愛好者の間では名の知られた存在であった。彼は、私が絲竹音楽に興味を持っているのを知ってたいへん喜び、自ら二胡、笛を買って私に与え、音楽を教えはじめたのである。
 私の方も、たいへんな熱の入れようであったから、進歩も速く、一年後には既に何曲かの絲竹音楽を演奏できるまでになっていた。おじも大いに喜び、私はおじに連れられてあちらこちらの絲竹の集まりや、「客串」と呼ばれる、婚礼やお祭りなどの行事の際の演奏に参加し始めた。なお、「客串」とは、民間のたいへん自由なアマチュアの団体であり、婚礼やお祭りの際にその主人の招きを受けて、無報酬で演奏を行なうものである。
 こうして、私は浦東一帯の多くの絲竹の名手の面識を得て、さまざまな曲を学んだ。ところが、一年たった頃、私は家庭の事情から、学校を止め、上海の横浜正金銀行の練習生となることになり、故郷の浦東を離れることとなった。それは、1931年のこと、こうして、多くのことを教えてくれた浦東の絲竹愛好家たちに別れを告げたのである。

30年代の絲竹

 1935年私は上海友声旅行団国楽組に参加した。これは、上海でも有名なアマチュア団体で、専門家を指導者にむかえ、常に高い水準を誇る名人たちがその演奏に参加しており、その優れた演奏技術は人々を傾倒させるものであった。ただ、こうした名人たちは、若い演奏者たちをまともには扱わない風潮があった。その頃、ある絲竹の集まりの際、名人たちと数人の若い演奏者たちが楽器を手に演奏の準備をしていたところ、未熟なものと合奏するわけにはゆかないとばかりに、いきなり名人たちはみな楽器をおいて、その場を離れてしまうという事件があった。私を含めて当時の若い人々は当然ながらたいへん怒り、老名人たちのこうした保守的で若い世代をばかにした態度は、許しがたいものだと感じた。しかし、いま想えば、自分たちの芸が先輩に及ばない以上、こうした屈辱を踏台に努力を続けていったからこそ、二年もたたないうちに、演奏技術の面でもまた合奏能力のうえでも、老名人たちにもその目をみはらせるほどの飛躍的な進歩を手にし得たのであった。  私が上海友声旅行団国楽組に参加しはじめてまもなく、当時「洞簫大王」の名をほしいままにしていた名絲竹家孫裕徳先生(1982年没)が会に参加され、孫先生の指導のもとに、「潯陽夜月」、「月児高」、「覇王卸甲」などの古曲を練習し始めた。これらは、それまで何曲かの江南絲竹を演奏するのみであった私の音楽的な限界を大きく打ち破るものであり、それは私が琵琶と洞簫を学ぶ契機ともなったのである。さらに上海の「今虞琴社」の二人の古琴の名手、張子謙先生と呉景略先生が参加されるようになり、わたしはこの両先生から古琴を学びはじめ、また古琴との合奏の必要性から、古代の楽器「陶」の吹奏法を自ら模索しはじめた。
 また一方では、当時の上海の有名なレコード会社であった百代唱片公司所属の著名な音楽家任光、林知音両氏も会の指導にあたられた。林先生は有名な笛子演奏家であり、昆曲をよくされたので、私は同氏から『朝元歌』、『遊園驚夢』などの昆曲の牌子曲を学ぶことができた。こうした老先生たちが奏でる美しい音楽は、私にたいへん深い印象を残し、以後の私の演奏風格の形成の基盤となったのである。

国楽研究会の結成

 1938年、私は孫裕徳先生や朱文頤氏らとともに「国楽研究会」を結成し、当時上海で著名な演奏会場であった蘭心戯院で前後七、八回にわたって演奏会を行なった。公演はたいへん好評を博したが、その内容は江南絲竹の「雲慶」「中花六板」「陽八曲」、広東客家音楽から移植した「懐古」、古楽合奏「潯陽夜月」、「月児高」「覇王卸甲」「青蓮楽府」、さらに絲竹合奏の「鷓鴣飛」を伴奏とした古典舞踏「綢帯舞」、古琴・瑟・雅簫合奏の「平沙落雁」「梅花三弄」および古詩詞や琴歌など、たいへん多彩なもので、それはまた一般の絲竹団体のレパートリーである江南絲竹八大名曲の範囲を打破するものとして、絲竹愛好者の大きな関心を集めるとともに、以後外地の楽曲を移植することにより、絲竹の曲目を豊富なものとしてゆく上で大きな作用をもたらすものであった。
 しかし残念なことに、その後「国楽研究会」はさまざまな理由からその活動が衰えてしまった。私はさらにより多様な音楽を身につけるために、上海の潮州音楽のグループや広東粤楽のグループにも師を求め、多くのものをそこから学んだのである。

一アマチュアから音楽家へ

 49年の上海解放を迎えると、中国共産党の指導のもとに民族、民間音楽が重視され、長い伝統を持つ江南絲竹もさらなる発展をとげるべく、空前の活気を呈した。「国楽研究会」は「上海国楽研究会」と名を改め、しばしば外国からの賓客の接待の際などに演奏を行なったが、二年のちに上海民族楽団が成立すると、こうした演奏は次第に減少していった。
 56年には、中央文化部と中国音楽家協会の主催により北京で第一回全国音楽週が開催され、私は上海代表団の一員として北京に赴きその公演に参加した。8月24日には政府指導者たちと中南海で会見し、私は光栄にも毛主席に会うことができた、終生忘れることのできない、最も幸福で、最も楽しい日となったのである。
 この北京での音楽週に参加した数日間が、その後私が歩むこととなる道を決定することとなった。私は東北音楽専門学校の笛子課程の主任教師に抜擢されたのである。56年の9月、一人のアマチュア音楽愛好家からプロの音楽教育者に転身することとなったのであり、また大学に進む機会のなかったものが最高学府の教壇にたつこととなったのである。その時の感慨は、言葉ではとても表現できないものであったことは十分お解りいただけるであろう。


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