太古遺音〜古復元への道〜
                               
陳 重(赤松紀彦訳)

最古の吹奏楽器

  笙・簫・管子・笛など中国のその他の吹奏楽器とは大きく異なる音色を持ち、また世界の原始芸術の中でも特殊な位置を占める(けん/xun)は、最古の吹奏楽器の一つであり、最も早い時期の文字資料の中にも、既に幾つもの記載を見いだすことができる。
   「伯氏(あに)はを吹き、仲氏(おとうと)は(ち)を吹く」 (『詩経』小雅・何人斯)
 「、土を焼きてこれを為る。大なる者は鵝の子(たまご)の如く、鋭上にして平底、形は秤錘(はかりのおもり)の如し。六孔。小なる者は鶏の子の如し」(『爾雅』釈楽)
 「、楽器也。土を以てこれを為る。六孔」(『説文解字』)
 「大なる者は雁の卵の如く、雅と曰う。小なる者は鶏の子の如く、頌と曰う」(『礼図』)
 「暴辛公(紀元前七七〇〜七二〇年、周の平王の時の一小国の諸侯)を作る」(『世本』)
 さて、およそ八千年前、私たちの祖先が次第に文明に向かって歩みはじめた頃、労働に用いる道具であった石器を、祭祀の時の歌や舞踏の伴奏に用いはじめた。これこそが、最も早期の楽器といえるものであろう。の原型はおそらく、当時の狩猟の際に投擲用具として、また鳥の鳴き声をまねて、鳥獣を誘い捕獲する用具として用いられた「石流星」(口笛のような音の出る球形の石つぶて)に由来する。その後、原始母系社会の仰韶文化時期(約七千年前)に入り、陶器の制作が始まると、原始的な石器は徐々に陶器にとって代わられ、「石流星」も「陶哨」すなわち「陶」に変化、発展していったと考えられている。

の出土

 近年あい前後して出土した、浙江省の河姆渡文化遺跡の一音孔陶、陝西省西安半坡の仰韶文化遺跡の無音孔及び一音孔陶、山西省万栄県荊村、太原市義井及び甘粛省玉門火焼溝など新石器時代遺跡の二音孔及び三音孔陶は、専門家の考証、測定を経て、六千七百年〜七千年前、新石器時代の産物であることが明かとなった。そして、一九七七年、呂驥氏が中国音楽研究所の専門家とともに、陝西・甘粛・山西・河南各地を調査した際に、荊村と義井出土の二音孔陶について、音高の測定を行なったところ、荊村の二音孔はe、b、dの三つの音を、義井の二音孔はe、g、aの三つの音を出すことができた。二つのの音を合わせると、完全な五声音階(e−g−a−b−d)を構成できることになるのである。
 このことから、早くも新石器時代の母系社会時期には、五声音階が既に形成されていたことが推定できる。また、河南省輝県琉璃閣の殷墟から出土した五音孔陶には、さらに大きな発展と規範化が見られ、完全な七声音階と一部の半音を吹くことができたが、それは、殷代には七声音階が既に形成されていたことを実証するものであった。

古代の音楽と

 殷代の音楽文化は高いレベルを備えていた。陶も三音孔から五音孔に発展し、その材料も石・骨・玉・象牙及び陶など多種にわたり、球形・管状形・魚形・梨形など多様な形式を持つに至ったが、陶製の梨形のものが最も普遍的であったので、一般的には陶と呼ばれるのである。周代に入り、社会生産力が高度な発展をとげ、人々の物質生活がさらに豊かになると、音楽文化の面でも大きな発展が見られる。文献資料によれば、当時の楽器は既に七十種以上を数え、それらを分類するために、その材料の違いによって、各種楽器は八種のグループに分けられ、「八音」と名づけられた。金・石・絲・竹・匏・土・革・木がそれである。「土」の類としてはと缶(ほとぎ)がある。缶は人々が物を貯えるために用いた生活用具であり、同時にまた打楽器としても使用されたのである。土製の吹奏楽器はといえば、一種であるが、古代にはしばしばとの合奏に用いられたため、「伯氏はを吹き、仲氏はを吹く」 (『詩経』)と歌われ、さらにこの二種の楽器は仲のよい兄弟の喩えともなった。  殷代以後の千年余りの間、はずっと元来の五孔のレベルを保持したままで、大きな発展は見られず、漢代に至って五個の音孔を持つ陶が出現したものの、普及しなかった。隋唐時代には、弦楽器が大きな発展を遂げたのに対し、は当時のかなり高いレベルの音楽表現に適応できず、次第に重視されないものとなっていったのである。史書におけるについての記載は片言只語に過ぎないが、北宋時代には、陶のかわりに木製のを用いたことがあるという。『宋史』楽志が載せる元豊三年(一〇八〇年)の范鎮の上奏文にはつぎのようにいう。
 「八音に匏、土二音無し。笙、は木斗を以て竹をし、而して匏(ひさご)を以てこれを裹む、これ匏音無きなり。器は木を以てこれを為る、これ土音無きなり。八音具わらず、以て楽を備うと為さば、いずくんぞ得べけんや」(現在の八音の中には、八音とはいうものの匏、土の二つの音がない。笙、は木製の斗で竹管をささえたうえで匏でもって覆うという形になっているが、これでは匏の音はないことになる。は木でもってそれを作っているが、これでは土の音がない。八音がそろっていないのに、楽が完備されているなどと、どうしていえようか。)  木製ので代用するとなると、八音のうちの土音を欠くこととなり、完全なものではなくなるというわけであり、こうして木は否定され、後世に伝えられることはなかったのである。

呉潯源と

 清末の光緒十四年(一八八八)、呉潯源が『棠湖譜』という書物を編纂した。これは、現在見ることのできる唯一のの楽譜である。呉潯源はさまざまな楽器を学んだが、中年以後はもっぱらを好み、その音は他の管楽器のような激しさがなく、最も平和的であると考えた。彼の考えによれば、は袖に収めたり、腰に佩びたりとたいへん便利なもので、弦楽器のように弦をおさえ、また調律したりする必要もなく、笙や笛のように簧(リード)を調節したり、笛膜を貼ったりという面倒もない楽器であった。さらに彼は、はたださまざまな楽器の音に合わせてその音を伝えることができるのみで、簫や笛のような独奏はできないとした古人の考えを否定し、独奏も可能であるばかりか、それに匹敵する楽器はないとまで言っている。最上の楽器であるというのは言い過ぎにせよ、彼はが他の楽器と合奏したり、伴奏したりできるばかりではなく、また簫や笛のように独奏にも用いることができることを強調したのであった。
 しかし、の改革に対しては保守的で、いわゆる古制の六孔(前三孔、後二孔、上部に吹孔を持つ)を墨守し、の孔を増して改良することに対しては、「浅陋」であるとみなし、俗人が古制を理解せず、でたらめに改造しているにすぎないとした。おそらくこのような保守的な観点は、呉潯源一人にとどまらず、それがこの古代の楽器の改良、発展を阻害してきたことは容易に推測されよう。

の復元へ

 近百年来、このという楽器はめったに見られないものとなった。1920年代に上海大同楽会により、またそれ以後にも音楽家の王巽之氏、近年には中国音楽学院の曹正氏により、の復元、改良が行なわれたが、あまり使用されず、普及もしなかった。そもそも、進歩しなければ、淘汰を免れないというのが事物の発展規律の常である。古い伝統を持つ「八音」の一つの土類の楽器、はまさに失伝の危機に瀕し、その響きを絶とうとしていたのであった。民族音楽の文化遺産を発掘、継承し、というこの古い楽器に活力を回復させ、伝統的な「八音」に欠けたものを補おうと、私は次のようなきっかけから古の研究、改良を模索しはじめたのである。
 1977年、呂驥氏は陝西・甘粛・山西・河南各地の調査から帰ると、『原始氏族社会から殷代までの時期の数種のから見た、我が国における五声音階の形成年代』という論文を著わした。それとともに、中央音楽学院の古琴家である呉景略先生に、現在を演奏し、制作することのできる人がいるのかどうかを尋ね、またこの古い楽器を救い、失伝をふせぐべきことを提言された。呉先生は、私を推薦され、私がかつて40年代にを演奏したことがあること、また当時の上海で著名な音楽団体であった今虞琴社及び上海国楽研究会に参加し、古琴や絲竹の演奏を学んだことを告げられた。さらに呂氏は、呉先生に私がを学生に教えたことがあるかどうかを尋ねられ、を幾つか試作することを依頼されたのである。当時、私は上海で病気療養中であったが、呉先生の手紙に接したのち、その激励のもとにの試作を開始した。
 私はを吹いたことはあるものの、制作したことはなく、どのような土を用いるべきか、どんな工具を使うべきか、さらにどのような焼き方をするのかなどについては全く知識がなかった。幸い隣人であった中央美術学院彫塑系を卒業した程氏が彫塑に用いる粘土を提供してくれたので、私はさっそく試作を開始した。制作の各過程すべてにわたって困難に直面したが、なかでも音孔を正確に開けることにはたいへん苦労し、ようやく三個を何とか完成させたのである。さて、第二段階は焼成である。呉先生、呂氏の依頼を通じ、北京の房山窯厰がその焼成を引き受けてくれた。しかし、私が三個の試作品を北京に郵送したところ、すべて破損してしまったのである。それは粘土の中に砂が多く含まれていたこと、撹拌が不均等であったことが原因であった。そこで改めて良質の陶土を手にいれ、もう一度三個を試作し、今度は林石城先生(中央音楽学院教授)を通じて呂氏に直接手渡し、房山窯厰へ届けて、焼成した。
 1978年の秋、林先生が三個の焼成されたを上海に持ち帰ったが、それらは私が制作した原物ではなく、元来の三個が焼成時の高温に耐えられず、すべて破裂したため、工場の技術者が黄土を用い、原物どおりに制作したものであった。試みに吹いてみると、焼成後の変形が著しいため、鳴りが悪いうえに、音孔も正確ではなくなり、本来の調子とはすっかり異なるものとなっていた。再度の調整を経て一個がようやく何とか吹奏できるという程度であったのである。
 1979年9月、私は病癒えて天津音楽学院に復職し、初めに制作した黄土製のを基礎に研究を続けた。天津美術学院の尹徳明、劉恩起両先生の協力のもとに、各地のさまざまな粘土を手にいれて試作してみたが、すべてもの足りないものであった。
 1980年春、私は以前の黄土製のを携えて北京に行き、呂驥氏に報告するとともに、江蘇省宜興の陶土で制作したい旨を提案したところ、賛同と激励を得、さらに、各地の博物館に現存する二十数個にのぼる出土古の複製品を可能な限り制作して、全国各地でこうした文物を目にしうるようにし、それによって我国の古い文化遺産に対する認識を深め、なおかつの演奏のできる学生を養成し、この古い楽器を継承、発展させるべく努力するよう私に求められたのである。

宜興で生まれ変わった

 天津音楽学院の賛同を得たうえで、私は1980年の夏に宜興陶磁研究所を訪問し、研究所長らの支持のもとに、工芸技術師の范盤冲氏がを制作を担当することとなった。范氏は、最上の陶土を用い、液状陶土を型に流し込む方法でを制作し、電気炉で焼成するという方法を用いたが、試作第一回目にしてかなりの効果を上げ、内側も外側もつやがあり、色も古雅で気品にあふれたものができあがったのである。第二回目の試作でも幾つかを作り、相当な成功を収めたが、ただ焼成の際の温度が千度以上に達するために、収縮が大きく、元来の音程が変化してしまい、吹孔、音孔ともにかなりの修整を加えてはじめて使用できるものであった。
 その年の春節(旧正月)後、私は第三回目の制作のために宜興に赴いたが、今度は紫砂工芸厰の若い工芸技術師である季益順氏に委託することにした。彼が言うには、陶器工芸はやはり手工品が最上であるとのことであったので、手工で二十個あまり作ったが、初めての制作であることもあり、精緻さに欠け、焼成後も理想にはほど遠いものであった。そこでさらに検討後、やはり液状陶土を型に流し込む方法で制作したところ、焼成後もその厚さが均等で、光沢も美しく、さらに「太古遺音」といった篆書を刻したところ、たいそう古雅重厚で、味わいに富んだもとのとなったのである。

九孔陶の完成

 こうして復元、改良した九孔陶は、殷代の五孔に依拠しながらも、その内部容積を増したため、音量も増加し、また元来の五孔を九孔に増やすことによって、その音域が拡大した。伝統的な俯吹と仰吹という技法によれば、基本的に二オクターブにわたる全音、および半音を吹くことができ、合計二十四ないし二十五の音と一つの自然倍音を吹くことができるようになったのである。音孔の排列も笛や簫に近いものに改めて、複雑な叉口による指法を避け、運指をより簡単なものとし、音程もとりやすいものとした。こうして改良したは大・中・小三種に分けられ、大の調子は最低音をDとして商調太簇に、中は最低音をFとして角調仲呂に、小は最低音をGとして徴調林鐘に相当するものとなった。なお、古くは黄鐘、大呂調のは雅、太簇、夾鐘調のは頌と呼ばれていた。音孔の位置、音域と指法の表を掲げておく。
 改良後の陶は、他の伝統的な管楽器とは異なる特色を備えている。例えば笛や簫と比較してみると、笛はよく響く明るい音色、簫は上品で奥深い音色を持つのに対し、はといえば重厚で悲壮感のある音色を持っている。三年来の試用を経て、古琴などとの合奏はもちろんのこと、独奏楽器としてオーケストラとの協奏も可能であり、その効果もなかなか良好であることが明かとなった。ただ、その音域はやはり広いとはいえないのであって、音域外の音については、オクターブ下やオクターブ上の音で代用するという、伝統的な手法に拠らざるを得ない。
  九孔陶の試作に成功すると、光明日報をはじめとする全国の有名な新聞が写真入りで報道し、1981年9月、中国音楽家協会民族音楽委員会、文化部(日本の文部省にあたる)科学技術局及び北京楽器協会の主催による全国民族管楽器改革座談会が蘇州で開催された際にも、九孔陶が展示されて、参加者たちの絶賛を博すると同時に特に会議の座長であった文化部科学技術局副局長王敏氏から、失伝の危機に瀕していた古楽器、の復元は、たいへん重要な意義を持つものであり、伝統的な「八音」を後世に伝え得るようになったことは、大きな歴史的、社会的な意義をもつといった賛辞が与えられたのである。

甦った古の音楽

 その後、中央民族楽団が、アメリカでのロスアンジェルス・オリンピック芸術祭に参加した際に、笛子演奏家杜次文が古と古筝二重奏による『楚歌』を演奏し、国外でも好評を得た。さらに、湖北省歌舞団の趙良山による、舞踏音楽『編鐘楽舞』でのの独奏曲『哀郢』、上海民族楽団の王力鈞による、古典楽舞『神州古韻』での素晴らしい音色と高い芸術的技巧を駆使した演奏、西安古典芸術団の王厚臣による舞踏音楽『倣唐楽舞』公演への参加など、優秀な演奏があいつぎ、中国青年芸術団の日本公演にも内蒙古歌舞団の李鎮がを携えて参加したのである。また、中央テレビ局と天津テレビ局により、古の復元と演奏のレッスンをまとめたドキュメンタリー『古新声』が制作された。
 こうして、九孔陶の改良、復元は一応の成功を収め、悠久の歴史をもつ我が国の文化遺産が再び光彩を放つこととなった。しかし現在の九孔陶には不足の点がなお多くあり、さらなる研究、改良によって、それが完璧な形となることを願ってやまない。
     

訳者注
1)吹孔が一つ、音孔が五つ。後文でいう「五孔」にあたる。
2)宜興は紫砂、我が国でいう朱泥の陶器の生産地として広く知られ る。ここで産する陶器は、きめがたいへん細かく、細工がきくこと で有名であり、その精緻な茶器はつとに名高い。
3)俯吹は音孔に対する口の角度を小さくする、つまりうつむきかげ んにして吹くこと、より低い音程が得られる。また、仰吹はその逆 であり、尺八でいう「メリ」「カリ」に相当する。
4)西洋の管楽器でいう「クロス・フィンガリング」。順に音孔を開 閉するのではなく、不規則に開閉する指法をいう。
5)六律六呂といわれる、中国における絶対音高の呼び名。付図参照

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